きらきら さらさら 流れていく日々のこと
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2010年8月
~読売新聞の記事より抜粋
堺市の高倉千代香さん(96)が満州の駅で夫の修さんを
見送ったのは、1944年7月。
妊娠5か月だった。
4ヵ月後、夫の飛行機はフィリピン上空で撃墜される。
遺骨すら見つからず、最後に別れた駅で
「これを自分を思え」と渡された一束の髪だけが
心の支えだったという。
夫の死から一ヶ月後に生まれた正達さんは今、65歳。
「女手ひとつで育ててくれた」と感謝する正達さんは
孝行息子として有名で今年の式典にも母の車椅子を押して
参加した。
でも、
「私一人で育ててきたわけでもない」と千代香さんは周囲に話すという。
夫婦として過ごした年月は長くはないが、その後も思い出に励まされ
癒されてきた。
子育てに迷う時には、
「あなたならどうするの」と心の中で夫に問いかけ、
アドバイスをもらってきたのだろうか。
正達さんも
「父の顔は知らないが、母の中に父を見て育ってきた」と言う。
そういえば精神科医で京大名誉教授でもある木村敏さんが
著書の中で、かけがいのない出会いのことを
「一緒に老いる」と表現していた。
それは必ずしも、何十年を一緒にすごすことを意味しない。
1時間でも10分でも、あるいは一瞬でも、
出会った二人が濃密な時間を共に生きれば、
一緒に老いると言える、と。
人生に離別、死別はつきものだ。
でも、
記憶の中の対話がその後の人生を心豊かにすることもあるだろう。
千代香さんや正達さんが修さんと「一緒」に
年を重ねてきたように。
☆☆☆
15年前。
祖母がまだ元気で、物忘れなどもしなかった頃。
私と久美ちゃんんあてに送ってくれた、
銀細工のペンダントと、達筆の手紙があった。
この手紙は久美ちゃんが今、持っている。
ふと思い出し、もう一度読み返したくなり、
確か書き留めたことがあったのを思い出し
昔の日記を探す。
ありました。
5年前の日記より、その全文。
智子さん、久美子さん
元気でいますか。
6月の初めにバリ島に行ってきました。
貴女達のおじいちゃんが戦死して50年になります。
貴女達のお父さんが3歳でした。お父さんの弟、Yおじさんは満1歳
とうとうお父さんの顔も知らずに終わりました。
戦地に出発してから時々手紙が来て 戦地の様子等を書いて、又
絵が好きだったので向こふの(南の島)風景等をスケッチして
送ってくれました。
椰子の大きな葉 青い海 白い雲 そんな風景を夢見乍ら
50年たった今も大切に保存してあります。
思いがけなく、結婚式に招かれて 地図を広げたところ
戦地から来た手紙に書かれた島々が近く
最後に敵機に応戦自爆した海にひきつけられて 行って来ました。
二日の夜 夕方から島巡りの遊覧船に乗って
暗い海を見つめ 或いは方向が違ったかもしれないけれど
日本から持っていった庭の押し花を供花の代わりに投じました。
声のない 叫びで投ず 故国の花
バリは宗教の島でとても信仰心の厚い島でした。
寺院が多く結婚式も昔の王宮でしたが 参列者も向こうの服装を借りて
珍しい式でした。
今度写真を見に来てください。
記念に買ったものです。
向こうの人たちはみな手先が器用で感心しました。
いろいろ書きたいけれど年をとったせいか疲れました。
お元気で
☆☆☆
(それに続くこれも5年前の私の日記)
おばあちゃんは今何歳だろう。確かもう80代後半。
今はもうだいぶ身体も小さくなってしまったけれど
昔の写真を見ると 本当に美人でかわいらしい女性です。
もちろん今でもとても上品。
あの戦争で、結婚して3年で夫と死別してしまった。
「とても優しくて、絵が上手で美術の先生にと薦められたけれど
断り士官学校に入学、エリートのパイロットで
女性にもとってももてたのよ。」
この話は何回も聞いた事があった。
結婚3年で小さな子供二人とともに遺された気持ちは
どんなに悲しかったか、と思う。
その後 当時は珍しい事でもなんでもなかったのだろうけれど
婚家に懇願されて、その弟だった人と再婚。
いろいろ気持ちの葛藤もあっただろうけれど
銀行家の妻として華道の教授としてさらに二人の子供にも恵まれて
生きてきた。
同じような境遇の女性はたくさんいると思うけれど
世間的にはとても恵まれていたのではないかなと思う。
もちろん、孫の私にはわからないいろいろな事はあっただろうけれど。
その二番目の夫もこの手紙より2年程前に他界。
二人の夫を見送ったのだった。
この手紙の中には、最初の夫への想いが詰まってる。
すごくすごく好きだったんだろうな。
その後の長い日々の中で、いろんな事を想ったんだろうな。
想わないはずはないもの。
父はその実父である戦死した祖父にとてもよく似ている。
DNAの営みがはっきりと見える。
モノクロの遺影はパイロットの航空服姿。
当時29歳の祖父は悠然と微笑んでいる。
その横に同じく色あせているけれど
やわらかいタッチで描かれた水彩画。椰子の木 青い空 白い雲。
形見分けで一枚もらったのだそうだ。
葉書だろうから、きっと裏には祖父から祖母への手紙も記して
あるのだろうけれど 小さなフレームに入れてあるものを
わざわざ裏返すのは 大事な何かを汚してしまいそう。
他人の恋文は やっぱり見てはいけないもの。
祖父の血液型はB型だったそう。
父もB。私もB。そして私の長女と長男もB。
大事に生きていかなくては
☆☆☆
共に老いる、という言葉。
読んで、涙が出てきてしまったよ。
今、一回り小さくなって、
新しいことはすぐ忘れてしまう祖母だけれど、
15年前は、
こんなに想いのこもった手紙を孫である私達に送ってくれていた。
おばあちゃんも、新しい夫と家族と共に、
戦死した最初の夫である私達の祖父とも
共に、老いて来たのだなって。
新しいことは忘れがちだけれど、昔のことはよく覚えてるって
父が言っていた。
>かけがいのない出会いとは、一緒に老いるということ。
>それは必ずしも、何十年を一緒にすごすことを意味しない。
>1時間でも10分でも、あるいは一瞬でも、
>出会った二人が濃密な時間を共に生きれば、
>一緒に老いると言える、と。
いい言葉だなぁ。心から思う。
そして、
なんて幸せな時代に生きている自分達。
戦争の頃よりも理不尽な別れは格段に少ないだろう。
それでも、
家族、友達、大切な人。
会いたい人は、
今、会えないけれど会いたい人は、
誰にでも、きっといるはず。
心の糸がほんの一瞬でも繋がったなら
ずっと一緒に年月を過ごしている、ということなのかな。
宇宙から地球を見下ろすように、見渡す範囲を変えてみたら、
そんな風に考えれば、
距離なんてどうでもいいことなのだろうね。
会いたい人と、同じ時間の流れの中に暮らせているということは。
~読売新聞の記事より抜粋
堺市の高倉千代香さん(96)が満州の駅で夫の修さんを
見送ったのは、1944年7月。
妊娠5か月だった。
4ヵ月後、夫の飛行機はフィリピン上空で撃墜される。
遺骨すら見つからず、最後に別れた駅で
「これを自分を思え」と渡された一束の髪だけが
心の支えだったという。
夫の死から一ヶ月後に生まれた正達さんは今、65歳。
「女手ひとつで育ててくれた」と感謝する正達さんは
孝行息子として有名で今年の式典にも母の車椅子を押して
参加した。
でも、
「私一人で育ててきたわけでもない」と千代香さんは周囲に話すという。
夫婦として過ごした年月は長くはないが、その後も思い出に励まされ
癒されてきた。
子育てに迷う時には、
「あなたならどうするの」と心の中で夫に問いかけ、
アドバイスをもらってきたのだろうか。
正達さんも
「父の顔は知らないが、母の中に父を見て育ってきた」と言う。
そういえば精神科医で京大名誉教授でもある木村敏さんが
著書の中で、かけがいのない出会いのことを
「一緒に老いる」と表現していた。
それは必ずしも、何十年を一緒にすごすことを意味しない。
1時間でも10分でも、あるいは一瞬でも、
出会った二人が濃密な時間を共に生きれば、
一緒に老いると言える、と。
人生に離別、死別はつきものだ。
でも、
記憶の中の対話がその後の人生を心豊かにすることもあるだろう。
千代香さんや正達さんが修さんと「一緒」に
年を重ねてきたように。
☆☆☆
15年前。
祖母がまだ元気で、物忘れなどもしなかった頃。
私と久美ちゃんんあてに送ってくれた、
銀細工のペンダントと、達筆の手紙があった。
この手紙は久美ちゃんが今、持っている。
ふと思い出し、もう一度読み返したくなり、
確か書き留めたことがあったのを思い出し
昔の日記を探す。
ありました。
5年前の日記より、その全文。
智子さん、久美子さん
元気でいますか。
6月の初めにバリ島に行ってきました。
貴女達のおじいちゃんが戦死して50年になります。
貴女達のお父さんが3歳でした。お父さんの弟、Yおじさんは満1歳
とうとうお父さんの顔も知らずに終わりました。
戦地に出発してから時々手紙が来て 戦地の様子等を書いて、又
絵が好きだったので向こふの(南の島)風景等をスケッチして
送ってくれました。
椰子の大きな葉 青い海 白い雲 そんな風景を夢見乍ら
50年たった今も大切に保存してあります。
思いがけなく、結婚式に招かれて 地図を広げたところ
戦地から来た手紙に書かれた島々が近く
最後に敵機に応戦自爆した海にひきつけられて 行って来ました。
二日の夜 夕方から島巡りの遊覧船に乗って
暗い海を見つめ 或いは方向が違ったかもしれないけれど
日本から持っていった庭の押し花を供花の代わりに投じました。
声のない 叫びで投ず 故国の花
バリは宗教の島でとても信仰心の厚い島でした。
寺院が多く結婚式も昔の王宮でしたが 参列者も向こうの服装を借りて
珍しい式でした。
今度写真を見に来てください。
記念に買ったものです。
向こうの人たちはみな手先が器用で感心しました。
いろいろ書きたいけれど年をとったせいか疲れました。
お元気で
☆☆☆
(それに続くこれも5年前の私の日記)
おばあちゃんは今何歳だろう。確かもう80代後半。
今はもうだいぶ身体も小さくなってしまったけれど
昔の写真を見ると 本当に美人でかわいらしい女性です。
もちろん今でもとても上品。
あの戦争で、結婚して3年で夫と死別してしまった。
「とても優しくて、絵が上手で美術の先生にと薦められたけれど
断り士官学校に入学、エリートのパイロットで
女性にもとってももてたのよ。」
この話は何回も聞いた事があった。
結婚3年で小さな子供二人とともに遺された気持ちは
どんなに悲しかったか、と思う。
その後 当時は珍しい事でもなんでもなかったのだろうけれど
婚家に懇願されて、その弟だった人と再婚。
いろいろ気持ちの葛藤もあっただろうけれど
銀行家の妻として華道の教授としてさらに二人の子供にも恵まれて
生きてきた。
同じような境遇の女性はたくさんいると思うけれど
世間的にはとても恵まれていたのではないかなと思う。
もちろん、孫の私にはわからないいろいろな事はあっただろうけれど。
その二番目の夫もこの手紙より2年程前に他界。
二人の夫を見送ったのだった。
この手紙の中には、最初の夫への想いが詰まってる。
すごくすごく好きだったんだろうな。
その後の長い日々の中で、いろんな事を想ったんだろうな。
想わないはずはないもの。
父はその実父である戦死した祖父にとてもよく似ている。
DNAの営みがはっきりと見える。
モノクロの遺影はパイロットの航空服姿。
当時29歳の祖父は悠然と微笑んでいる。
その横に同じく色あせているけれど
やわらかいタッチで描かれた水彩画。椰子の木 青い空 白い雲。
形見分けで一枚もらったのだそうだ。
葉書だろうから、きっと裏には祖父から祖母への手紙も記して
あるのだろうけれど 小さなフレームに入れてあるものを
わざわざ裏返すのは 大事な何かを汚してしまいそう。
他人の恋文は やっぱり見てはいけないもの。
祖父の血液型はB型だったそう。
父もB。私もB。そして私の長女と長男もB。
大事に生きていかなくては
☆☆☆
共に老いる、という言葉。
読んで、涙が出てきてしまったよ。
今、一回り小さくなって、
新しいことはすぐ忘れてしまう祖母だけれど、
15年前は、
こんなに想いのこもった手紙を孫である私達に送ってくれていた。
おばあちゃんも、新しい夫と家族と共に、
戦死した最初の夫である私達の祖父とも
共に、老いて来たのだなって。
新しいことは忘れがちだけれど、昔のことはよく覚えてるって
父が言っていた。
>かけがいのない出会いとは、一緒に老いるということ。
>それは必ずしも、何十年を一緒にすごすことを意味しない。
>1時間でも10分でも、あるいは一瞬でも、
>出会った二人が濃密な時間を共に生きれば、
>一緒に老いると言える、と。
いい言葉だなぁ。心から思う。
そして、
なんて幸せな時代に生きている自分達。
戦争の頃よりも理不尽な別れは格段に少ないだろう。
それでも、
家族、友達、大切な人。
会いたい人は、
今、会えないけれど会いたい人は、
誰にでも、きっといるはず。
心の糸がほんの一瞬でも繋がったなら
ずっと一緒に年月を過ごしている、ということなのかな。
宇宙から地球を見下ろすように、見渡す範囲を変えてみたら、
そんな風に考えれば、
距離なんてどうでもいいことなのだろうね。
会いたい人と、同じ時間の流れの中に暮らせているということは。
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